スタジオよりずっと 既に組み上がっているセット。客席をせわしなく動き回るスタッフを眺めながら、響也は置かれたパイプ椅子に沈み込む。そのタイミングで渡された紙コップを受け取った。 「お疲れさまです。もうちょっとですから、よろしくお願いします。」 判で押されたように、同じ言葉と動作を繰り返すスタッフに、御苦労さんと告げてやる。スタジオと廊下を隔てる扉がなんとなくざわついているから、もうリハーサルは終わりに近い。朝から繰り返して歌ったナンバーは、正直そろそろ飽きて来た。 とは言え、番組のメインなのだからこの場合仕方ないだろう。 今は司会をする男女のアナウンサーがいるスタンドの前。後何回立つ事になるんだろうかと思いを馳せる。 ゆっくりと踏み出す一歩。 緊張と興奮と、それはいつもごちゃ混ぜになっていて境目なんか推測することすら出来はしない。 それでも、そんな自分を冷静に見つめている人格もあって、浮かれているようで何処かたまらなく冷めている。それは、こういう眩い光の中だろうと、群衆に囲まれたステージだろうと、真実を明らかにする場所だろうと変わらなかった。 こうでなければと思った事もない。でも、もうひとりの自分を翻弄する事なんて出来ないとずっと思っていた。 スタジオよりも、ライブよりも、法廷よりも自分を翻弄する存在を初めて知った。冷静な自分なんか、欠片も存在しなかった。 時々、酷く男の顔をする小柄な弁護士。 何もかもに無心で全力投球をする男かと思えば、裏腹な計算高い部分も見せる。 邂逅する度に印象を変えていく彼は、一体何者なんだろうと思う。 寧ろ、そういう相手に出会えた事に、感謝の言葉とやらを送るべきなのかもしれないな、そんな事を呑気に思い、響也は用意された飲物を流し込んだ。 もうすぐ休憩時間は終わり、これで何度目かのリハーサルが開始される。今日はこれ以外の仕事を入れていなくて本当に良かったと響也は思った。徹夜明けで、体調は万全とは言えない。咽を痛めなかったのは幸いだったけれど、もし壊していたとしても、変わらずこなさなければ成らない事がある。 この世界は常に法則に縛られていた。 例えるなら、今番組を収録しているこの場がそうだ。顔合わせをして、何度かリハーサルをして、客を入れて、本番。いつもそれの繰り返し。イレギュラーもたまにはあるけれど、それは推測の範囲内で。七年に渡りそれをこなして来た響也にはさして変化を感じられる事も無い。 けれど、王泥喜は違った。 常に、響也が思っていたのと違う意味で予想を裏切る。 関係ないと告げた後に、気になるという。携帯で済むだろう会話をわざわざ目の前まで来て告げる。常に優しいようで、本当は誰よりも手厳しい。 気付くと自分の目が彼を追っていた。既に心は均等を崩していて、それを正そうと揺れる度に、王泥喜という人間を取り込んでいくような気がする。 こんな気持ちを彩るのに相応しい言葉を知っている。それこそ、何百回口にしたのかわからない言葉だ。 知らしめるように、鎖骨に残された鬱血がずくりと痛んだ。 情事の痕というよりも、完全に打撲傷のようになっているそれは今、ガーゼの下に隠されている。打ち身だと信じ込んだスタッフによって、治療された結果だ。 これも予想外。 ぶぶっと、吹き出しかけて口元を抑える。声が大きい分、肺活量とかも多いんだろうか。こんな話、聞いた事もない。 休憩の終わりを告げる声に、ざわざわと周囲が動き出す。響也もそれに習って座っていた椅子から腰を上げた。きっと、今日歌う曲は、今までとまるで違ったものになるだろうと確信して。 「ガリュウ、顔がエロい。」 ふいに掛けられたメンバーの言葉に、響也はクスリと笑って片手を上げて見せた。 盛りの付いた野良猫が、餌を食べに帰ってきた頃には、三時のおやつの時間を過ぎていた。ニット帽子を取りパーカーのポケットに仕舞う。そのまま、両手をパーカーのポケットに突っ込んで、ドカッとソファーに沈み込んだ。 「腹減ったなぁ〜。」 部屋の角で資料整理(この事務所のだ!)をしていた王泥喜は、無言で立ち上がりラップに包まれた皿をドンとテーブルに置いた。 「米としなびた葱と黄身がへたれた卵しかありませんでした。」 「ガスは通ってたか〜いや〜良かった。」 それでも山盛りの炒飯(なのか?味付け御飯?)をレンゲでいそいそと口に入れる成歩堂は本当にお腹が空いているのだろう。 「みぬきちゃんが盛りの付いた猫って言ってましたよ。」 嫌味を込めて言葉を吐くと、はっはっはっと笑う。 「盛りがついてるのは、僕じゃあないだろう。」 成歩堂の揶揄することに思い当たり、王泥喜の鶏冠がピンと伸びる。そうだ、この人は俺が朝帰りをすると踏んで、みぬきちゃんを通じて伝言を残していたのだ。 「………成歩堂さんは、牙琉検事としたんですか?」 「随分とストレートな聞き方だね。」 照れるじゃないかと頬を赤らめてみせる男に、王泥喜は殺意に近い気持ちを抱く。先生今なら、貴方の気持ちがわかります。 「君はしたのかい? 王泥喜くん。」 「してません。」 貴方には関係ないと答える選択肢を王泥喜は敢えて選ばなかった。会話を続けようとした王泥喜の言葉を、奇妙に軽快な音楽が遮る。 某バンドの着メロだと気付いた時には、成歩堂は通話を初めていた。 「ああ、響也くん。」 ニヤと成歩堂が笑う。ちらと王泥喜に送る視線には、形容し難い光を宿していた。 「ああ…そう。いいよ、わかった。」 ぷちと携帯を切り、成歩堂は残った炒飯を皿の真ん中に集めて一気に平らげた。 「さて、お誘いの電話だ。また行ってくるよ。」 「…。」 王泥喜の視線が、完全に怒気を含んだものに変わっているにも係わらず、表情は変えない。太々しい、これこそ大人の顔だ。 牙琉響也君は…そう口を開く。 「彼は、僕の人生を変えた公判を二度共有した相手で、親友の弟で、検事だ。」 これが、僕の答えの全てだよ。 にやりと笑った成歩堂は、目深くニット帽を被り直す。それは特別な相手だと言っているようにも、王泥喜には聞こえた。 帰ってきた時と同じように扉を潜り、成歩堂は事務所を出る。足早に雑踏に消えていく。さっきの会話通り、牙琉検事に会いにいくのだろう。 昨日仕事を手伝った時、今日は収録以外の仕事は入れていないと言っていた響也の言葉を思い出す。嘘ではないのだ。本当に、ふたりは逢うのだ。 目的は? 選択式に変わった答えに思いを巡らすりも早く、王泥喜は手にしたファイルを放り出し、成歩堂の後を追った。 content/ next |